指宿鰹節
指宿市は鹿児島県薩摩半島の南端にある指宿温泉の名で知られる観光の街であり、指宿鰹節の生産地がある山川町(やまがわちょう)は指宿市の南の端にあり、江戸時代は島津氏の直轄地でありました。ちなみに近くを走るJR指宿枕崎線の駅名の山川駅は(やまかわ)と呼びます。
山川で鰹節造りが始まったのはの約100年前の1909年、明治42年と古く、伊予のかつお節製造業者が山川の納屋を借りて土佐節をつくり、その製法を習得して始められたのが山川かつお節です。古くより漁業や貿易の港として栄えていた港にかつお漁船の入港が多くなり、かつお節製造業者も増えて、かつお節の製造が盛んに行われるようになりました。現在、指宿市の基幹産業として全国のかつお節製造量の約3割(年間:約1万トン)を製造するまでになっています。生産額は年間約100億円に達します。特に本枯節の生産量は全国の約7割を占めます。
鰹節の歴史は古く鰹節が初めて登場するのはわが国最古の書物とされる、「古事記」です。「堅魚」カタウオとあり、今の鰹節の原型をなすものが存在していたと推測されます。奈良時代の「大宝律令」、平安時代の「延喜式」にも「堅魚」「煮堅魚」「堅魚全煎汁」の記載がありカツオやカツオの加工品と思われるものが賦役品として税の対象になったことが記されています。只、この頃は今の燻乾方法ではなく、日に干すだけの天日乾燥でした。今のような製法は、1674 年(延宝2 年)紀州熊野浦の漁師甚太郎がばい乾法で製造したのが起源とされており、その技法が1707 年(宝永4 年)に森弥兵衛により伝えられ、この頃から枕崎・坊津で煮熟ばい乾を基礎とするかつお節製造が始まったと言われています。しかし、一説には薩摩節の始まりはこの紀州からの伝来製法ではなく、それより古い1504年(永世年間)頃にはすでにかつお節と名のつく製品が七島で作られ、この製法が内地に伝わったもので、紀州熊野浦の甚太郎は第二の創始者ではないかともいわれています。